Dare the Unknown × DJ HASEBE Style
MY EXPLORATION vol.13

パラディウムが掲げる『CITY EXPLORING -都市探検- 』、“Dare the Unknown”(敢えて一歩を踏み出す)というブランドメッセージに共鳴する人物の姿を追いかける。今回は今年、DJ活動30周年を迎えるDJ HASEBEにインタビュー。

※新型コロナウイルスの感染拡大前昨秋のインタビューです。

10代の頃から都内のクラブを中心に活動をスタートし、96年に初のプロデュース作品『アイスピック』をリリース。同年にAIKOと結成したユニット“Suger Soul”名義でリリースした「今すぐ欲しい」が大ヒット。90年代から今に至るまで、さまざまな音楽を届け続けてきた。プロデューサー/リミキサーとしても90年代から日本のHIPHOP・R&Bシーンを牽引してきた超重要人物だ。

そんなDJ HASEBEは、2010年にそれまでの仕事をほとんど断り、自分の「オリジナリティ」を探す探検に出る。紆余曲折を経て見つけた生き方、音楽、ファッション。自身のスタイルとは、なんだったのだろうか。


音楽が「好き」というより「かっこいい」なって

 ― HASEBEさんは、どんな音楽を聴いて育ったのですか?

『よく覚えているのは、おやじが聴いていた冨田勲。シンセサイザーの音色が心地良かった。『宇宙幻想』ってアルバムがあって、それを繰り返し聴いていたなぁ。でも、いろんな音楽を聴いていましたよ。レベッカ、オフコース、佐野元春』

 ―幅広いですね。

『地元が木更津って千葉の田舎のほうなんで、手に入る情報はテレビくらいなんですよ。そうすると、テレビでよく流れる曲はよく聞くことになる。広く浅く聴いていたのは覚えてます。洋楽も聴いていましたよ。深夜番組のベストヒットUSAで流れるマイケル・ジャクソン、シンディ・ローパー、マドンナとか』

 ―やはり、昔から音楽が好きなんですね。

『どうだろうな(笑)。音楽が好きというよりも、単純に“かっこいい”くらいだった気がします。とにかく刺激が欲しかったんですよ。大勢のひとの前に立って、沢山の観客に囲まれるアーティストを見て「いいなぁ、俺も目立つような存在になりたいな」って』

『だからってこともないですが、高校生の時はバンドもやっていました。高校に入学したのは87年だったので、BOØWY(ボウイ)やBARBEE BOYS(バービーボーイズ)のコピーバンドを。一応、3年やったんだけど、最後のほうがグダグダでしたね』

93年のニューヨーク。HIPHOPの最前線を見て「いける」って思った

 ―バンド少年だったHASEBEさんは、どうやってクラブカルチャーに目覚めていくんですか?

『知り合いがバイトしていた地元のディスコがあったんですよ。キャバクラを改装したようなやつで。バンドの練習場所も探していたので、夜は俺もバイトさせてもらって、昼はバンドの練習をさせてもらってたんです。そこの店長がHIPHOPを教えてくれた。Beastie Boys(ビースティ・ボーイズ)、Public Enemy(パブリック・エナミー)とかベタなやつからね』

『はじめに買ったレコードはRun DMC(ラン・ディーエムシー)の『IT'S TRICKY 』だったかな。高校3年くらいになると、バンドもグダグダ。メンバーも就職したり、受験勉強があったりしますから。バンドは自然消滅的に解散になり、俺はどっぷりとブラックミュージックにハマっていくんです』

 ―そのあたりからDJ HASEBEになっていくわけですね。

『いや、実を言うとまだDJにはたどり着かない(笑)。まずはダンスからスタートするんです。当時『CLUB DADA』ってストリートダンスのテレビ番組が始まったんですよ。六本木のマハラジャで、撮影していて、よく遊びに行っていました。そこらへんからダンスを覚えて。マライア・キャリーのバックダンサーだったElite Forceってヒップホップダンスチームには、ずいぶんと影響を受けましたよ』

『俺が高校を卒業した90年のころは、ちょうどHIPHOPのサウンドが多様に進化しはじめる時期だったんです。いわゆるニュースクール時代に入る。De La SOUL(デ・ラ・ソウル)、A Tribe Called Quest(ア・トライブ・コールド・クエスト)、Jungle Brothers(Jungle Brothers)は自分にとってはアイドルですよ。そのくらいからサンプリングの技法も、曲に乗せるメッセージもガラッと変わってくる。そういったHIPHOPの音楽性に衝撃を受けるようになって、DJをやりだすんです』

 ―やっとDJ HASEBEにたどり着くんですね。

『DJで行こうと決心したのは93年。92年くらいになると、ニュースクールの流行りもちょっと落ち着いて、いろんなプロデューサーが出てくる。大量にHIPHOPのシングルが出た年でした。具体的に言えば、90年前後のBPM速めで音数の多いパーティーたっぷりの曲から、独特な「グルーヴ感」をまとった曲が増えていく。BPMを落として、ラップもビートに対して遅く乗る。レイドバックしていく。DJ PremierやPete Rockが積極的に音をリリースしていた時代。この92年くらいの雰囲気が、俺のサウンドのひとつになっています』

『現場を自分で体感したくて、ひとりで93年の2月に渡米したんです。ニューヨークの安宿に泊まって1ヶ月くらい。初日にダウンタウンの「Nells」というクラブに行きました。1FはFunkmaster Flex(ファンクマスター・フレックス)、2FではBOBBY KONDERS(ボビー・コンダース)が回していたんです。そこで、おこがましい話なんですけど「これなら俺にもできる」って思ったんですよね(笑)』

 ―俺にもできる!?(笑)

『そう。曲のつなぎ方、2枚使いのスキル、フロアの盛り上げ方、グルーヴのつくり方。自分が心地よいと思えるもの、そのものでした。自分がやりたいことをやれば、自分にもできそうだって思ったんですよ。だって、HIPHOPの最前線で通用するスタイルなんだから。ダンボール2箱分くらいレコードを大量に買って帰国して、地元の木更津を出て、東京に引っ越しました』

『とはいえ、DJだけで食えるようになったのは、その3年後くらい。タイミングはけっこう良かった。日本語ラップシーンが盛り上がってきて、HIPHOP全体が上向きだった。俺もミックステープを出したり、曲を作ったり、クラブでレギュラーが決まったり。DJだけで生計を立てられるようになったのは、安室奈美恵ちゃんのツアーDJ後の96年あたりからですね。そんな感じで、ついに30年です(笑)』

自分の「オリジナリティ」を求めて迷ってしまった

 ― 30年を振り返った時、ターニングポイントはありますか?

『2010年くらいかな。それまでの仕事をほとんどリセットするんですよ。迷走して抜け出せなくなっていたから。ずっとブラックミュージックに憧れて、影響を受けて、DJをしたり、楽曲制作をしてきた。でも、「それだけでいいんだっけ?」という問題意識があって。「自分の“オリジナル”はどこにあるんだろう。自分らしさを見つけないといけないんじゃないか」って』

『HIP HOPって、そのカルチャーの起源はアメリカの黒人にありますけど、そこからいろんな要素がミックスされていくんです。アメリカの多様なバックグラウンドを持つ人々はもちろん、ヨーロッパに渡ったことで、また固有のグルーヴ感が出たり』

『日本人の自分がやるんだから、自分なりのオリジナリティを出さないといけない。そんなことを考えて、DJスタイルもHIPHOPだけでなく、いろんな方向に行ったり来たりする。音数が多くてBPM速めな曲、四つ打ちとかもDJに混ぜていったり』

『俺は横ノリも縦ノリも好きなので“自分らしさ”としていろんな音を混ぜていたんです。でも、00年代後半になると、それはだんだんと“EDM”というジャンルになり、どんどん大きなマーケットになっていく。そうなってくると、悲しいかな「この人たち、音楽好きなのかな?」ってお客さんも増えてきちゃって……。ビジネスで言えば成功なはずなんですけど、俺は「これやりたくてDJやってたのかな?」って冷静になっちゃったんです。とりあえず飯を食うのに困ってはないけど、なんだか自分に自信がなくなってしまった』

 ―それで仕事をリセットしたんですね。

『そう。受けていた仕事もほとんどお断りさせてもらって。「EDMはかけません、自分の好きな癖の強い曲しかかけない面倒くさいDJです」って開き直ってみたんですよ。もう一度、自分の個性を真剣に探すことにしたんです。自分はどんな音楽を好きなのか、なんで好きなのか、どんなサウンドなら自分らしいのか。一度、全部壊して、再構築しなきゃって。あの時期は、本当に仕事がなかったですよ(笑)』

『あのころのEDMシーンへのカウンターって、多くの人が模索したんじゃないかな。レコードに戻っていくDJもいたし、Daft Punkも2013年にGet Luckyを出したり。過去は捨てられない。過去も含めて今を肯定することから始める』

 ―そこからどうやって抜け出したのでしょうか。

『色々と模索しました。クラウドファンディングで資金を募ってインストアルバムを出してみたり、クラブじゃなくて野外フェスの出演に力を入れてみたり』

 ―最近積極的な、若手アーティストをfeat.に迎えた楽曲もそのアップデートのひとつですか?

『そうですね。おかもとえみちゃんは、ずっと好きだったんですよ。打ち込みのサンプリングビートに、ゆるい歌い方っていうスタイルが。あれこそ今のかっこよさだと思う。これに合わせるのは唾奇(つばき)だろうなと。ふたりに客演OKもらった時は嬉しかったですね。後は、男性ふたりをfeat.するのもフレッシュでおもしろいだろうなぁと思ってSALUとSIRUPとも楽曲制作をして』

『色々やってきたけど、今思うのは、過去を全部捨てて新しく生まれ変わるなんてできないってことです。過去の自分も認めながら、今の自分をアップデートしていくこと。今の自分が持っているものを活かしながら、次の一手を考えたほうがいい』

『自分の憧れってありますよね? でも、憧れってどこまでいっても到達できない。だから憧れなんですよ。ということは、憧れとはいつまで経っても並べない。そうなら、憧れは一旦置おいて、自分自身に戻っていく他ない。ちょっと抽象的ですけど、そんなことを考えています。まあ、まだまだですけどね(笑)』

今の自分が思う自分の理想像。個性や中身を象徴するのがファッション

 ―考えてみれば、90年代、00年代のHIPHOPの人は、ダボダボのオーバーサイズファッションばかりだったけど、HASEBEさんはシュッとした格好していましたよね。自分らしさを活かすことは、昔から実践されてきたのかもしれませんね。

『そうですね。今見ると、結構オーバーサイズですけど(笑)あんまり時代に流されず、今の自分をどう見せるか、を考えていたと思います。シンプルで、自分自身にすっとなじむようなスタイルではありたい。だから、いつも同じような格好しているんですよ。自分の身体にちゃんとマッチするものって、そんなに無いと思うんです。だから合うものが見つかると、何枚かまとめ買いして、着回したりしています』

『なるべく、今の自分が思う自分の理想像でいたい。結局人は見かけが一番なんて言いますが(笑)、自分の個性や中身を象徴するのが洋服だと思うので、どんな洋服を着るかは大切にしたいですね。音楽も、そういう感じでいきたいなって』

Text & Edit:Shintaro Kuzuhara
Interview:Masaya Koma
Photograph:Kaoru Ito

GALLERY 01


MODEL/PRODUCT


PAMPA PUDDLE LITE+ WPD
パンパ パドルライトプラス ウォータープルーフD

PRICE:¥13,800+tax
SIZE:22.5-28.0・29.0cm

PALLAPHOENIX SERIES
パラフェニックス シリーズ

GALLERY 02

PROFILE


DJ/ サウンド・プロデューサー、OLD NICKことDJ HASEBE。
1990年よりDJとしてのキャリアをスタート。2000年代中盤以降はOLD NICK名義による洋楽カバー・アルバムリリース、 BENI、Arrested Development、Mya、清水翔太など多くのアーティストのリミックやプロデュースを手がける。2010年にDJ活動20周年を記念してリリースされた自身のワークス集に収録されている「Last Vacation feat. RYO-Z.PES(from RIP SLYME) & JUJU」はiTunes HIPHOPチャート1位、総合で4位を獲得。マイケル・ジャクソンとジャクソン5音源のみで選曲されたミックステープ&リミキシーズ作品『MICHAEL JACKSON / JACKSON 5 “The Ultimate Mixtape”』のリリースや、クラウドファンディングを活用したアルバム制作プロジェクト成功など、時代の中で変化するデバイスやツール、スタイルも自由に行動を起こす。 2019年には向井太一、BASI(韻シスト)をフィ チャーしたリードトラック収録の「Tokyo Sunshine Groove」リリース。唾奇、おかもとえみ、SALU、SIRUP他若手アーティストとのコラボ作品のリリースを行うなど、常にシーンの潮流の中心を見据える数少ないアーティストである。

OFFICIAL SITE:INSTAGRAM TWITTER FACEBOOK SOUNDCLOUD

 

INFORMATION


RELEASE

   
TITLE:「Welcome to my room feat. Ryohu & 土岐麻子」配信限定シングル
DATE:02/06/24(WED)
URL:Apple Music‬ / Spotify‬ / LINE MUSICAmazon MusicUNIVERSAL (LABEL SITE)
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NEW ALBUM RELEASE

   
TITLE:「Wonderful tomorrow」
DATE:2020.07.29(WED)
URL:Comes Soon!